罔殆庵

染井吉野ナンシーの官能世界

名前が変わったのか、元からそうだったのか?

このところずーっと、朝日新聞の夕刊で連載されている「人見街道」。《マダニャイ とことこ散歩旅》というコーナーで取り上げられています。

この人見街道、杉並の中心よりちょっと南寄りを突っ切るような感じで延びていて、井の頭通りと合流します。あたしが小学校から大学生のころまで住んでいた高井戸は、ちょうどこの人見街道が通っている場所で、あたしは小学校へ通うときに、毎日この人見街道を渡っていました。比較的車の量が多かったので、渡る信号機の処には毎朝「緑のおばさん」と呼ばれる交通整理の人が立って、子どもたちを誘導してくれていました。

そんな人見街道朝日新聞の連載では「人見街道」と書かれ、その由来も語られていましたが、あたしが子供のころには、この通りはそんな呼ばれ方はしていませんでした。では何と呼ばれていたのか?

正解は「久我山街道」です。「久我山通り」と呼ぶこともありましたが、その理由はこの通りがちょうど井の頭線久我山駅の処を通っていたからです。この名称が正しかったのか否か、行政的な意味での正確さはわかりません、しかし、当時あたしたち小学生は、この通り界隈に住んでいる者なら誰もがそう呼んでいたのです。

では、あたしは今でも「久我山街道」を強く主張するのかと問われると、別にそこまで拘りがあるわけではありません。通りとか川とかって同じものでも地域によって呼び名が変わることはよくあることですので、久我山を通っているという杉並区民には非常にわかりやすい理由から久我山街道、久我山通りと呼ばれていただけでしたし、子供のことですからそこに正確さを求めていたわけではありません。

ただ、杉並に在住のころ、中学生だったか高校生だったか忘れましたが、こういった広くもない通りにも街路名の看板が立てられるようになり、そのとき久我山街道に「人見街道」という看板が立っているのを見て非常に違和感を感じたのを鮮明に覚えています。「なんで久我山街道じゃないの? 人見街道って何?」というものです。

たぶん、大人はいざ知らず、その当時、あの地域で育った人の多くはそういう感想を持ったのではないでしょうか? しかし、しばらくすると「ずーっと西の方では人見街道って呼ばれているらしくく、そのまま人見街道の名前で看板を立ててきたので、そうなった」という噂を耳にしました。三鷹だか府中だか、そっちでは人見街道と呼ばれているのはよいとして、どうして通り全体の名前までそれに従わなければならないのか、というちょっとした憤りは感じました。久我山街道の名前を府中まで延ばしたってよかったはずです。

そんな当時の記憶が蘇ってくる朝日新聞夕刊の連載です。