罔殆庵

染井吉野ナンシーの官能世界

思わぬところで……

話題の韓国文学『アーモンド』読了。

感情を司る扁桃体の発達が不十分で、怖いとか恐ろしい、悲しいといった感情が理解できない少年が主人公の物語。クリスマスイブの晩、目の前で暴漢に襲われて祖母を亡くし、母は寝たきりの植物人間になってしまいます。そんな彼が母の残した古本屋を細々と営みながら学校に通い、そこで出会った「怪物」と接するうちに徐々に変化していくわけです。

この作品の中に直接的にタイトルは出て来ないのですが、名作『ライ麦畑でつかまえて』について主人公が言及する場面があります。主人公はこの本を何度も読んでいるそうです。そう言えば映画「天気の子」でも主人公が家出をしたときに一冊だけ持っていた本が『ライ麦』でしたね。やはり思春期の少年のバイブルなのでしょうか?

さて、本作の結末がどうなるかは読んでのお楽しみにするとして、本作もやはりこの後主人公がどんな大人になったのか、「怪物」とはその後どんな交流が続いたのか、仲良くなった女の子との淡い想い出のエピソードはいつか回収されるのか、そんなことを考えてしまいました。

なお、本書は第一部から第四部まであり、最後にエピローグがあります。それぞれの扉ページは同じデザインなのですが、全体の網掛けの濃度が異なります。最初は黒に近い濃い灰色、それが徐々に薄くなり、エピローグでは真っ白になります。主人公の変化、心の帳が取れていく過程を象徴するような粋なデザインだと思いました。

さて、主人公の母が営んでいた古本屋、その本やのシーンで主人公はこんな感想を漏らします。

本は、僕が行くことのできない場所に一瞬のうちに僕を連れて行ってくれた。会うことのできない人の告白を聞かせてくれ、見ることのできない人の人生を見せてくれた。僕が感じられない感情、経験できない事件が、本の中にはぎっしりと詰まっていた。それは、テレビや映画とはまるで違っていた。(P.49)

本というもの、読書体験というのもの本質と言いますか、これぞ醍醐味ですね。主人公はさらに続けて

映画やドラマ、あるいはマンガの世界は、具体的すぎて、もうそれ以上僕が口をはさむ余地がない。映像の中の物語は、ただ撮られている通りに、描かれている通りにだけ存在している。……(中略)……本は違う。本は空間だらけだ。文字と文字の間も空いているし、行と行の間にも隙間がある。僕はその中に入っていって、座ったり、歩いたり、自分の思ったことを書くこともできる。意味がわからなくても関係ない。どのページでも、開けばとりあえず本を読む目的の半分は達成している。

そうそう、本は想像力を養ってくれるのですよね。本作中でははっきりとは書いていませんが、主人公の母親が古本屋を開いたのも主人公の症例に読書が少しでもよい影響を及ぼすのではないかと期待していたからなのではないでしょうか? そんな気がしました。