罔殆庵

染井吉野ナンシーの官能世界

正史を確認

つい数日前に読了した『親王殿下のパティシエール』の主人公はフランス人と清国人のハーフ、菓子職人のマリーですが、そのマリーを庇護する、もう一人の主人公が清朝乾隆帝の皇子、永璘です。彼は実在する人物ですので、清朝の記録である『清史稿』を繙いてみました。

中国は王朝が代わると、次の王朝が自身の正統性を示すために先代王朝の歴史をまとめるのが伝統です。そのために歴代王朝は自身の歴史をしっかりと記録して残しておき、それを利用して次の王朝が正史にまとめるのです。

清朝が滅びた後も中華民国がその事業を継承し、あたしが学生のころに『清史稿』が完成、刊行されました。手元にあるのは中華書局の点校本で全48冊になります。いずれこれをベースとして『清史』が刊行されるのでしょうが、そんなニュースは聞こえてきませんね。そもそも作業は続いているのでしょうか。

それはさておき、その永璘の伝記は「列伝八」に載っています。該当部分が二枚目の写真です。たったこれだけです。第十七皇子というのはそのとおりで、乾隆54年、つまり1789年、フランス革命の年に貝勒に封じられたとあります。その後、嘉慶帝が即位、乾隆帝崩御して親政が始まった嘉慶4年に郡王に報じられたというのも『親王殿下のパティシエール』最終巻に載っていました。

そして和珅の誅殺を受けて、その屋敷を賜ったことも書かれています。そして嘉慶25年に急な病となり、皇帝が見舞い、郡王から親王へ位が上がったのですが、その甲斐もなく亡くなってしまいました。1820年のことで、兄の嘉慶帝も同じ年に亡くなっています。

『清史稿』には生年が書かれていませんし、マリーと出会うことになる洋行についても何も書かれていません。乾隆帝の本紀も見てみましたが、王子をフランスへ派遣したという記事を見つけることはできませんでした。あたしの探し方は粗かったのかも知れませんので、これは引き続き調査してみたいと思います。