罔殆庵

染井吉野ナンシーの官能世界

作家と土地

昨晩のイベント「アジア文学の誘い@チェッコリー第3回『年月日』」の感想を少々。とは言っても、イベントの感想と言うよりは閻連科とその作品についての感想になりますが……

今回取り上げられた『年月日』は、日本で閻連科の名前が出たときに真っ先に挙がる作品ではないでしょう。やはり閻連科と言えば『愉楽』だと思います。

   

そして『愉楽』と似たようなテイストの作品として『硬きこと水のごとし』と『炸裂志』があり、あたしなりに表現するならば「エロエロ、ギトギト」な小説です。この流れには『人民に奉仕する』も加えることができると思いますが、いわゆる発禁作家・閻連科の面目躍如といった作品群です。

そして、こういった作品で閻連科を知った方には『年月日』は若干物足りない作品と映るかも知れません。しかし、よく読んでいただければ、いずれに作品にも通じる、大地に根ざした眼差し、人を慈しむ優しさ、そして世の不条理に翻弄される庶民(農民)の悲しみをいう点でやはり紛れもなく閻連科の作品だということが理解していただけると思います。

かつてこのダイアリーにも書いたのですが、これらの閻連科の作品は舞台がほぼ同じ土地です。乾いて痩せた土地です。その土地の大きな歴史を区切っては小説に仕立てているのではないか、そんな印象を持ったあたしには、ページ数の差があまりにもありますが、これらの作品はすべて一連の作品、大きな物語を構成するパーツなのではないかと思われます。

さて、閻連科は中国の北方の作家ですが、広い中国ですので作家の出身によって作風と言いますか、作品の雰囲気がずいぶんと変わるものです。閻連科の作品では北方の気候風土が描かれているので上述のように乾いていて、水分とか潤いといったものが限りなく少ない、ほぼ感じられないと言ってもよいくらいです。

それに対し、華中の作家・畢飛宇の『ブラインド・マッサージ』は非常に湿っています。映画にもなった作品ですが、映画の印象はずーっと雨が降っていた感じです。同じ中国でもこれほど異なるとは、やはり大陸は広いものです。

 

さらに『年月日』は極限状態のサバイバルで、かなり汚い描写も出て来るのですが、大地や空気が乾いているからでしょうか、鼻の穴がムズムズするような感じです。同じ汚い中国の作品として『黄泥街』がありますが、こちらは水に祟られた汚さです。ですから、鼻の穴ではなく湿度として体にまとわりつくような汚さを感じます。『黄泥街』の作者・残雪も湖南の人ですから、土地としては乾いていない地方です。

こんな風に、中国という大地の風土を踏まえて読むべきだと言いたいわけではありませんが、作品を読むときにはこういった知識も持っているとよいのかな、などと思いました。最近比較的よく読んでいる韓国の作品も、中国ほど広い国ではないですが、地方の差が大きいと聞きますので、作家の出身地を踏まえた上で読むと面白いのでしょうね。

ところで「年月日」というタイトルです。大地と生きる農民が肌で感じる時間の流れを表わしているのだとは思います。ただここで勝手な解釈をさせてもらいますと、この作品には太陽と月が印象的に描かれています。「月日」はそれを含意しているのではないかな、そして「年」には「実り」という意味がありますので、これは農民にとっては最も大切なもの、そして主人公が命を賭して守ろうとしたもの、ではないでしょうか?